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憲法を守ることは沖縄を守り、日本を守ると同じだと思う。
違うと思われる方はコメント欄まで。
1972年(昭和47年)5月15日に、沖縄(琉球諸島及び大東諸島)の施政権がアメリカ合衆国から日本に返還されたことを指す。日本国とアメリカ合衆国との間で署名された協定の正式名称は「琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」である。 日本の法令用語としては沖縄の復帰(おきなわのふっき)という。
沖縄と憲法 渡部 容子 ←知らない方は是非リンクを開いてお読みください。
平和主義を掲げる憲法前文の一部
『日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、専制と服従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。』
『この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は過去幾多の試練に堪え、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。』
県民はアメリカの施政に落胆し本土復帰(日本復帰)を訴え、県民有志は「島ぐるみ闘争」といった抵抗運動を起こし、1960年には沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)を結成した。
ベトナムへの軍事介入を拡大したジョン・F・ケネディ大統領や、ケネディを継いでベトナム戦争を泥沼化させたリンドン・B・ジョンソン大統領は、エドウィン・O・ライシャワー駐日大使などによる沖縄の本土復帰についての助言を受けたにもかかわらず、沖縄返還を全く考慮しなかった。
1969年に行われた日米首脳会談で、ベトナム戦争終結とアメリカ軍のベトナムからの撤退を公約に掲げ前年の大統領選挙に当選したリチャード・ニクソン大統領が、ベトナム戦争の近年中の終結を鑑みて、安保延長と引き換えに沖縄返還を約束したが、公選の行政主席である屋良朝苗や復帰賛成派の県民の期待とは裏腹に、アメリカ軍基地を県内に維持したままの「72年・核抜き・本土並み」の返還が決定し1971年沖縄返還協定調印、その後1972年5月15日に日本へ復帰した。
内閣総理大臣・佐藤栄作はニクソンとの取り決めで、非核三原則の拡大解釈や日本国内へのアメリカ軍の各種核兵器の一時的な国内への持ち込みに関する秘密協定など、冷戦下で東側諸国との対峙を続けるアメリカの要求を尊重した。
なおアメリカ軍がベトナムから全面撤退したのは、沖縄返還の翌年の1973年3月29日であった。
また、日本への返還に際し、日本政府は返還協定第7条にもとづき「特別支出金」として総額3億2000万ドルをアメリカ政府に支払った。
西山太吉は実際の支出総額が5億ドルをはるかに超えて、密約として処理されたと主張している。「特別支出金」の内訳には、琉球水道公社や琉球電力公社、琉球開発金融公社のほか、那覇空港施設や琉球政府庁舎あるいは航空保安施設、航路標識などのアメリカ軍政下で設置された民生用資産の引き継ぎの代金1億7500万ドルが含まれていた。日本政府は取り決めに従いこの対価を支払った。
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