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日常か非日常か

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マグダラのマリア

マグダラのマリアについては、聖書の中では姦淫の罪を犯して石打ちの刑が決まった女性。
このマリアについてはのちに聖人に加えられる。

私はこのマリアが出てくる聖書の箇所について恐れがあった。
石打ちの刑が始まろうとした時にイエスさまがこられて、
「あなたたちの中で 罪を犯したことのないものが、この女にまず石を投げなさい」といい、この女の周りにいた者は石を投げずに去っていきました。その後、
"イエスは身を起こして、彼女に言われた。「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか。」彼女は言った。「はい、主よ。だれも。」イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」〕"ヨハネの福音書 8章10~11節
イエスさまはさばかずに、これからは決して罪を犯してはなりませんと言ったのです。
それからはこのマリアはずっとイエスさまとその弟子、一行の後についてくる者と一緒に行動をし、ゴルゴダの丘での十字架にかけられるイエスさまを見守り、三日後の復活されたイエスさまを最初に見て、それを皆に知らせに走った証人となりました。罪は犯していません。

私はその「罪を犯してはなりません」というのはこのように弟子とともに弟子のように生きて、イエスさまの証人として生きることなのだろうと思っていました。罪を犯さずに。
そうすれば良いんだと思って長いこと生きてきました。でも果たしてそれは可能だろうか?私はこれから先罪を犯さずに生きていけるだろうか?Crimeを犯さずに生きようと決意して実行することはあるいは可能です。でもその保証なんて本当はどこにもありません。
そしてSinについてもあるいは可能で保証もないのも同じですがこちらはほぼ刑法での法がないものです。刑罰で人間から裁かれることはないでしょうが、主の前ではどうでしょうか。

Sinは容易く犯してしまうものであると思います。だからそんな人間たちを憐れんで父なる神はイエスさまをこの世に送ったのでしょう。それはキリスト者なら誰でも否定はできないはずです。

マリアの行動は許された後、イエスさまの側を離れなかったのはとても重要なことだと思います。
それでも蘇った後のイエスさまは、マリアがご自身に触れることを拒みました。
これからは違うんだよっていうイエささまの意思表示だと思います。これからは目に見える者ではなくなるんだよ、それでもわたしの側からは離れないようにという大事な大事な事柄だと思います。

私が生まれる前から私がどんな人間か、それはもうバレちゃってる。それもキリスト者なら否定できないことだと思います。

「罪とは主から目を逸らしてしまうことでしょう?」
この確信を与えてくださった兄弟に会えたことは感謝です。



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