"日本国憲法第九条って何?"カテゴリーの記事一覧
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2015年9月、安倍政権時の記事から。
今回の報告書では、2つの異なる考え方を示していただきました。1つは、個別的か、集団的かを問わず、自衛のための武力の行使は禁じられていない、また、国連の集団安全保障措置への参加といった国際法上、合法な活動には憲法上の制約はないとするものです。しかし、これはこれまでの政府の憲法解釈とは論理的に整合しない。私は憲法がこうした活動のすべてを許しているとは考えません。したがって、この考え方、いわゆる芦田修正論は政府として採用できません。自衛隊が武力行使を目的として湾岸戦争やイラク戦争での戦闘に参加するようなことは、これからも決してありません。もう1つの考え方は、我が国の安全に重大な影響を及ぼす可能性があるとき、限定的に集団的自衛権を行使することは許されるとの考え方です。生命、自由、幸福追求に対する国民の権利を政府は最大限尊重しなければならない。憲法前文、そして憲法13条の趣旨を踏まえれば、自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置を採ることは禁じられていない。そのための必要最小限度の武力の行使は許容される、こうした従来の政府の基本的な立場を踏まえた考え方です。政府としてはこの考え方について、今後さらに研究を進めていきたいと思います。切れ目のない対応を可能とする国内法整備の作業を進めるに当たり、従来の憲法解釈のままで必要な立法が可能なのか、それとも一部の立法に当たって憲法解釈を変更せざるを得ないとすれば、いかなる憲法解釈が適切なのか。今後、内閣法制局の意見も踏まえつつ、政府としての検討を進めるとともに、与党協議に入りたいと思います。与党協議の結果に基づき、憲法解釈の変更が必要と判断されれば、この点を含めて改正すべき法制の基本的方向を、国民の命と暮らしを守るため、閣議決定してまいります。今後、国会においても議論を進め、国民の皆様の理解を得る努力を継続していきます。十分な検討を行い、準備ができ次第、必要な法案を国会にお諮りしたいと思います。命と平和を守るために、常日頃から隙のない備えをしなければいけない日本は戦後70年近く、一貫して平和国家としての道を歩んできました。これからもこの歩みが変わることはありません。しかし、平和国家であると口で唱えるだけで私たちの平和な暮らしを守ることはできません。私たちの平和な暮らしも突然の危機に直面するかもしれない。そんなことはないと誰が言い切れるでしょうか。テロリストが潜む世界の現状に目を向けたとき、そんな保障はどこにもありません。政府は、私たちは、この現実に真正面から向き合うべきだと私は考えます。私たちの命を守り、私たちの平和な暮らしを守る、そのためにはいかなる事態にも対応できるよう、常日頃から隙のない備えをするとともに、各国と協力を深めていかなければなりません。それによって抑止力が高まり、我が国が戦争に巻き込まれることがなくなると考えます。先ほど申し上げたような事態においても、しっかりと日本人の命を守ることこそが総理大臣である私の責任であると確信します。今後、検討を進めるに当たり、国民の皆様のご理解を心からお願い申し上げる次第であります。私からも引き続き、あらゆる機会を通して、丁寧に説明をしていきたいと思います。再度申し上げますが、まさに紛争国から逃れようとしているお父さんやお母さんや、おじいさんやおばあさん、子供たちかもしれない。彼らが乗っている米国の船を今、私たちは守ることができない。そして、世界の平和のためにまさに一生懸命汗を流している若い皆さん、日本人を、私たちは自衛隊という能力を持った諸君がいても、守ることができない。そして、一緒に汗を流している他国の部隊、もし逆であったら、彼らは救援に訪れる。しかし、私たちはそれを断らなければならない、見捨てなければならない。おそらく、世界は驚くことでしょう。こうした課題に、日本人の命に対して守らなければいけないその責任を有する私は、総理大臣は、日本国政府は、検討をしていく責務があると私は考えます。私からは以上であります。政権が自由に憲法解釈を変更することは、立憲主義の否定にならない?内閣広報官:それでは、皆様からの質問をお受けいたしますので、ご希望される方は挙手をお願いいたします。私が指名いたしますので、ご所属とお名前を明らかにされた上でご質問をお願いしたいと思います。 まず、幹事社の方からの質問を先にお受けしたいと思います。どうぞ。記者:東京新聞の城島です。総理は、憲法解釈の変更に言及されました。歴代政権が踏襲してきた憲法解釈を一政権の判断で変更するとしたら、憲法が政府の政策を制限する立憲主義の否定ではないでしょうか。政権が自由に憲法解釈を変更しても問題ないとお考えですか。総理は、日本が再び戦争をする国になることは断じてないと強調しました。しかし、集団的自衛権を認めれば、将来的に自衛隊が他国の戦争に参加する可能性は否定できません。これが総理の掲げる積極的平和主義でしょうか。安倍:今、私が説明をしたように、この事態でも私たちはこの船に乗っている、もしかしたら子供たちを、お母さんや多くの日本人を助けることはできないのです。守ることもできない。その能力があるのに、それで本当にいいのかということを私は問うているわけであります。立憲主義にのっとって政治を行っていく、当然のことであります。その上において、私たち政治家は、こうしたことができないという現状から目を背けていていいのかということを皆さんにも考えていただきたいと私は思います。人々の幸せを願って、まさに生存していく権利があるわけなのです。そして、その権利を私たち政府は守っていく責任があるのです。その責任を放棄しろと憲法が要請しているとは、私には考えられません。会見をご覧になっている皆さんや、皆さんのお子さんやお孫さんが、こうした立場になるかもしれないという、そのことを考えていただきたいと思います。この議論は、国民の皆様一人ひとりにかかわる現実的な問題であります。北朝鮮のミサイルは、日本の大部分を射程に入れています。このような日本を取り巻く安全保障環境の大きな変化を踏まえて、7年がかりでこの問題に取り組んできました。いかなる事態にあっても国民の命と暮らしは守っていく責任が私たちにはあるはずです。こうした観点から研究を進めてまいります。他方、私は、日本国憲法が集団的自衛権を含め、自衛のためならすべての活動を許しているとは考えていません。自衛隊が武力行使を目的として他国での戦闘に参加するようなことは、これからも決してありません。それは、今、申し上げたとおりであります。憲法が掲げる平和主義は、これからも守り抜いていきます。今回の検討によってですね、他国の戦争に巻き込まれるといった批判があります。こうした批判は、1960年の安保改正の際、盛んに言われました。この安保条約の改正によって、むしろ反対論の中心はそこにあったのです。この日米安保の改正によって日本は戦争に巻き込まれる、さんざん、そう主張されました。しかし、50年たってどうだったでしょうか。この改正によって、むしろ日本の抑止力が高まり、アジア太平洋地域においてアメリカのプレゼンスによって、今、平和がより確固たるものになるというのは、日本人の常識になっているではありませんか。まさに、私たちが進めていこうとすることは、その抑止力を高めていく、そして、日本人の命を守るためにやるべきことはやらなければならない、という観点から検討していかなければならないということであります。巻き込まれるという受け身の発想ではなくて、国民の命を守るために、何をなすべきかという能動的な発想を持つ責任があると、私は思います。 繰り返しになりますが、抑止力が高まることによって、より戦争に巻き込まれることはなくなると、私はこのように考えております。PR -
日本国憲法第10章 最高法規
第98条 【最高法規、条約及び国際法規の遵守】
第1項
この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、 詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
第2項 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。憲法と条約が矛盾した場合にどちらが優位に立つか?「憲法が優位とするのが通説。憲法改正は国会の議決と国民投票が必要であり、内閣による締結と国会の承認で足りる条約が憲法に優越すると解することはできない。
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第九条日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。2項前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
第九条に基く憲法解釈を知る。「自衛権」1959年12月 砂川事件・最高裁判決「国際法上、国家は、いわゆる集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止することが正当化されるという地位を有しているものとされており、国際連合憲章第51条、日本国との平和条約第 5条(C)、日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約前文並びに日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言 3第 2段の規定は、この国際法の原則を宣明したものと思われる。(9/23 加筆)そして、わが国が、国際法上右の集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然といわなければならない。ところで、政府は、従来から一貰して、わが国は国際法上いわゆる集団的自衛権を有しているとしても、国権の発動としてこれを行使することは、憲法の容認する自衛の措置の限界をこえるものであって許されないとの立場に立っているが、これは次のような考え方に基くものである。憲法9条は、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているのであるが、しかしもちろんこれによりわが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではないのである。(中略)わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない。このように、自衛権は独立国家として当然に保有しているもので、自衛のために必要相当な範囲の組織である自衛隊も合憲である、という考え方が政府からも最高裁からも明示。「集団的自衛権」1960年3月31日 岸信介首相、参議院予算委員会での発言(現在の「限定容認論」や閣議決定された方針に近い考え)「集団的自衛権という内容が最も典型的なものは、他国に行ってこれを守るということでございますけれども、それに尽きるものではないとわれわれは考えておるのであります。そういう意味において一切の集団的自衛権を持たない、こう憲法上持たないということは私は言い過ぎだと、かように考えております。」.「集団的自衛権を否定する政府解釈」1972年10月 参議院決算委員会提出資料政府は、従来から一貫して、我が国は国際法上いわゆる集団的自衛権を有しているとしても、国権の発動としてこれを行使することは、憲法の容認する自衛の措置の限界をこえるものであって許されないとの立場に立っている。憲法は、第9条において、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているが、前文において「全世界の国民が・・・平和のうちに生存する権利を有する」ことを確認し、また、第13条において「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、・・・国政の上で、最大の尊重を必要とする」旨を定めていることからも、わが国がみずからの存立を全うし国民が平和のうちに生存することまでも放棄していないことは明らかであって、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない。しかしながら、だからといって、平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであって、 それは、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきものである。そうだとすれば、わが憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、したがって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない。「集団的自衛権は認められない」1981年5月29日 政府答弁書国際法上、国家は、集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもつて阻止する権利を有しているものとされている。我が国が、国際法上、このような集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然であるが、憲法第九条の下において許容されている自衛権の行使は、我が国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであつて、憲法上許されないと考えている。なお、我が国は、自衛権の行使に当たつては我が国を防衛するため必要最小限度の実力を行使することを旨としているのであるから、集団的自衛権の行使が憲法上許されないことによつて不利益が生じるというようなものではない。(※1981年の政府答弁書より引用)時代とともに変化してきた憲法9条と自衛権に関する解釈は、この1981年の答弁で政府の基本的立場として固まったとみられていた。日本は、国連憲章に明記されている個別的自衛権も集団的自衛権も保有しているものの、憲法9条の制約によって、集団的自衛権については行使できないという立場に至る。国連憲章第51条この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持または回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。 -
2015年10月28日に、noteにて書いた記事です。
日本が隠蔽した昭和十九年十二月の東南海地震。名古屋気象台発表昭和十九年十二月七日、11:36マグニチュード7.9被災地は主に愛知県半田市、中島飛行機半田製作所。倒壊家屋、およそ5万4000戸、死者および行方不明、1223名死者153名、うち学徒勤労動員96名。このような隠蔽は珍しくないとの事。中島飛行機半田製作所では各地から学徒が集められ、劣悪な環境で作業に従事していた。毎日の食事は少しの米と味噌汁。一月に319時間労働、一日平均12時間。震災によりレンガ造りであった壁が崩れ、ほとんどが押しつぶされて圧死したものと思われる。この三日後、十二月十日。アメリカ軍は偵察機を飛ばし、被災状況を把握していた。上空に現れたB29からビラが撒かれた。丁寧な毛筆によるビラであった。「地震の次は何をお見舞いしましょうか」 -
昭和二十一年十一月三日憲法)
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。