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日常か非日常か

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この世と調子を合わせてはいけません。
2023年1月7日にnoteにて掲載したものです

"この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
"
ローマ人への手紙12章2節
聖書 新改訳第二版

この世の調子に釣られて、怒りで全身を満たしてしまう寸前で、実際に身体が痛み、血圧が急上昇するのも、また恵みなのでしょう。実際の痛みを味わい、床に臥すことによらなければ、聖霊の働きを妨害してしまうというエゴイストな性質を止められない。
"不信者と、つり合わないくびきをともにしてはいけません。正義と不法に何の関わりがあるでしょう。光と闇に何の交わりがあるでしょう。
キリストとベリアルに何の調和があるでしょう。信者と不信者が何を共有しているでしょう。"
コリント人への手紙 第二 6章14~15節
最後の七週が引き延ばされて、二千年以上も延ばされたというのは嘘だった。七週の大患難時代が続いているというのも嘘だった。
"あなたの民とあなたの聖なる都について、七十週が定められている。それは、背きをやめさせ、罪を終わらせ、咎の宥めを行い、永遠の義をもたらし、幻と預言を確証し、至聖所に油注ぎを行うためである。"

ダニエル書 9章24節

"それゆえ、知れ。悟れ。エルサレムを復興し、再建せよとの命令が出てから、油注がれた者、君主が来るまでが七週。そして苦しみの期間である六十二週の間に、広場と堀が造り直される。"

ダニエル書 9章25節

"ヨハネから、アジアにある七つの教会へ。今おられ、昔おられ、やがて来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、
また、確かな証人、死者の中から最初に生まれた方、地の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにあるように。

ヨハネの黙示録 1章4~5節

"耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。勝利を得る者には、わたしはいのちの木から食べることを許す。それは神のパラダイスにある。』"

ヨハネの黙示録 2章7節

教会は御霊が告げることを聞かなければ何も始まらない。まだ始まっていないのに、いつ終わりが来るのかまだ誰もわからないだろう。なぜ、こんなことしたら主が怒るのではないか?それで自分はダメだって目を伏せるんだろう。それじゃあ思う壺だろう。
善悪を知る木の実を取って食べ、神のような知恵を持つことが出来ても、そこにいのちがない。エデンの園には、中央に善悪の知識の木と、もう一つ、いのちの木があったけれど、それを素通りして来た。そむきの罪の咎を赦し、いのちの書に名前を記そうとまでして下さる。神の愛は世々限りなく続く。
今、イスラエルという国は存在し、エルサレム神殿も存在する。でも、本当に主のみこころの通りに復興出来ているのか、いないのか?主のみこころだけが成りますように。

"また、確かな証人、死者の中から最初に生まれた方、地の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにあるように。私たちを愛し、その血によって私たちを罪から解き放ち、
また、ご自分の父である神のために、私たちを王国とし、祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくあるように。アーメン。"

ヨハネの黙示録 1章5~6節
旧約聖書と新約聖書の間には、400年の時間があるとしても、それはニンゲンの朝夕の時間で、神には4秒くらいだろうし(あるいは)、キリストの弟子のペテロが建てた初代教会を弾圧して潰したのがBC300年までの出来事だとして、そこから100年で新約聖書の元になる書簡と御霊の働きで出来上がったとしたら、大患難時代が2000年以上続いてるって、あまりにも愛がない。
"神は言われます。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。」見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。"

コリント人への手紙 第二 6章2節

忘れちゃいけないこと。
イエスさまは神殿で鳩や牛や羊を売ったり、両替えする者たちに、細縄で鞭を打ちながら追い払うということをしたことから、主の神殿には生け贄は必要がない、そしてしきたりの一切を否定するものだろう。私たちが待つエルサレムの神殿は、古いものではないだろう。イエスさまが人を細縄で打つなど、それは大変なことで、よほどのことだと想像出来る。それは父なる神のみこころなのだろう。もう生け贄は求めていない父なる神。それは神ご自身が、人間として生まれ、人類の罪を背負って十字架に架かられたイエス・キリストで完了したことで気付かされることのはずだ。
私たちが待つのは、古い神殿ではないはずだ。新しい神殿を待つ。すべての債務証書を無効にし、私たちの罪をもう二度と思い出さないという神に対して、捧げものは必要なく、必要なのは感謝の祈りであり、いつまでも十分な恵みを与えて下さる主を褒め称えることに新しく変わったはずだ。いつまでも自分の罪にオドオドしているのは、もったいない時間だと思う。
イエスさまが死なれた時に神殿の幕が上から下まで避けた時、それまでは大祭司だけが幕の奥に在る至聖所に入れたものを、幕が裂け至聖所が丸見えになったというのは驚愕の光景だっただろう。大祭司は何を思ったか。神ご自身が至聖所の幕を破り、誰でも神の近くに来なさいと、懐を大きく開いて待っていて下さっているという証だ。それはユダヤ人のみならず、異邦人にまで及び、今は人類すべてにまで、その恵みに与ることが出来る。大患難時代どころか、今はまだ恵みの時。学問もお金も必要もない。求められているのは、信じる心によりイエスさまに近づこうという決心ひとつ。
新しい神殿は、ペテロが建てた初代教会だったかもしれないが厳しい弾圧によって破壊された。今は教会が新しい神殿とされているが、本当にそうだろうか?
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