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キリスト教と一口に言いますが、実は長い年月の間に、人間の思惑でさまざまな方向へ分かれて行っております。そこはどうこういう場ではないので控えますが、私はいわゆる無教会主義のプロテスタント系、またはブレザレンとも言われるものだろうと思われますが。特にどこかに属するわけではなく、名簿も組織もない自由な集まりの中の小さな群れにおります。
教会クリスチャンから見ますと、理解できない部分がありましょうが、私はそこで信仰告白をし、ドイツ人の宣教師の手で、父なる神と御子イエス・キリストと聖霊によって洗礼を受けました。
そこになんの疑問の余地もありません。私はなんの疑問も持っていないのに、時に仏教系やキリスト教のプロテスタントのクリスチャンから否定的なことを言われます。Twitterでです。面と向かっては言えないのでしょう。なぜ否定されるのかはわかっています。進学を学び、聖書に精通して、経験を積み、伝道活動をし、教会の牧師や神父を献金で支えて、清く正しいクリスチャン生活を続け、悪から遠ざかり、罪を犯さず、全ての権威に逆らわず、政治にも関わらずに浮世離れした生き方をしてこそ立派な信仰生活であると多くの人がそう捉えているからです。
つまり、「修行もせずに、何をいうておるか!」という想いからなのでしょう。仏教では高僧もおられ、厳しい修行に耐えて仏の教えに従い生きていく厳しい道を歩まれておられるのでしょう。そこは否定しません。悪に染まらず、清く生きて行ってください。どうぞその道から逸れずに頑張ってくださいませね。
私も最初の頃は、信仰には段階みたいなのがあるのだろう、聖書を読み解くのは難しいだろうと思い、特に旧約聖書の各書簡の解説本を取り寄せて“勉強“をしておりました。でもすればするほど、心がちっとも恵まれないどころか人を断罪して罪に問う方向へ走っていることに気がつきました。家族に伝導し親類にまで伝道していました。幸いにもイエスさまを受け入れたいと家族は言いましたので安心しているところではありますが、そうではない者もおります。でも今はそのことで思い悩むことはしなくなりました。
聖書は読み説くものではないのです。これは与えられる御霊によって導かれて読む神の「みことば」なのです。難しい解説など無用なのです。誰でも主を救い主であるとし受け入れるなら義と認められるのです。誰でもです。厳しい修行を積んだ者だけの救いではありません。人に教える教師となる者はもう一段も二段もよくよくお祈りをして日毎の糧になるみことばを正確に伝道するのでしょう。私も教師という位置になるであろう兄弟のメッセージを聞いて糧にしております。そこは教会クリスチャンとほぼ同じではないかと思います。
私は教会クリスチャンではありませんが小さな群れの集まりの中には教会から出てきた人もたくさんおられます。それぞれに疑問を持ったり、導かれたりと個々のストーリーがあって、それも主のご計画のうちにあることでしょうから、教会がどうのこうのいうつもりはありません。
しかし私は教会に繋がるのだけは嫌でした。聖書を持ちながらも教会に行ったことは数えるほどです。3回くらいかな?教会に行けばそこにある人間関係に絡め取られそうで嫌でしたし、自分はきっとクリスチャンとしては落第点の人間だろうとずっと思っていたからです。あんな集まりには行けない、私は続けられない、そう思って一人で聖書を読む年月ばが長かったです。二十歳の時に聖書を紀伊国屋書店で購入して、やっと30歳過ぎに無教会主義の姉妹に出会いました。この時から主の愛がどれほどのものであるかを教えられる日が始まりました。そういう日を迎えないことには何も始まりませんし、まだ何も受け取れないかもしれません。
主イエス・キリストの救いとは何か。それは魂の救済です。この世の栄光も名誉も実は虚しいものかもしれません。主によってでなければ。
「そんなんで救われるはずがない」ではどうすれば救われるのかと聞けば浄土真宗の人、真言宗の人、その他諸々の日本にある宗教家たちはいろいろと言うでしょう。それはしても良いのですが、全てが益になるとは限りません。
聖書の引用をすればそれらしく読めますか?引用はしておりませんが、この文章は聖書を土台にして書いております。クリスチャンだと名乗る方であればどの箇所かはわかるはずです。
「そんなんで救われるはずがない」
いいえ。自分の罪を認め主にごめんなさいと心から悔い改めて、祈るならその人は救われます。一度でもそうやって祈ったなら、その人の生涯は無意味に捨て置かれることはありません。神は憐れみ深く慈悲深いお方です。私たちのことはなんでも全てご存じです。弱さも情けなさも痛みも苦しみも全てご存じなのです。救いはすぐ近くにあるのです。
"しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。
すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。
すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、
神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。
神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。ご自分の義を明らかにされるためです。神は忍耐をもって、これまで犯されてきた罪を見逃してこられたのです。
すなわち、ご自分が義であり、イエスを信じる者を義と認める方であることを示すため、今この時に、ご自分の義を明らかにされたのです。
それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それは取り除かれました。どのような種類の律法によってでしょうか。行いの律法でしょうか。いいえ、信仰の律法によってです。
人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められると、私たちは考えているからです。
それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもあるのではないでしょうか。そうです。異邦人の神でもあります。
神が唯一なら、そうです。神は、割礼のある者を信仰によって義と認め、割礼のない者も信仰によって義と認めてくださるのです。
それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、律法を確立することになります。"
ローマ人への手紙 3章21~31節
続く。
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