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日常か非日常か

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そんなんで救われるはずがない? その2

 私のnoteより。2019年10月29日 09:09

前々から考えていたことの宣言と決意を述べておきます。
まず第一に。

私は善人でも良い人でも、心の綺麗な人間でもありません。
強くもありません。全部誤解だし見抜いている人は見抜いています。もしそのように一瞬でも見えるのなら、主イエスさまが私を通して、言うべき事やるべき事を成し遂げられたのであって、褒め称えられるべきは主イエスキリストです。
私ではありません。
私の願いは、みことばに従う事、主イエスキリストのみこころを常に追う事と、家族も救われる事を信じて諦めない事、福音を述べ伝える事、イエスさまが今も生きて働いている事を、ここで証しする事です。

すでに私の言葉の荒さはTwitterで垣間見える通り。

そして、嘘をつきながら良い顔をして悪びれもせずに悪政を布く政治家に対する思いは、戒めから逸脱し尽くし、憎しみが絶えない事、世の男性に対して敵意を持っている事で、
愛のない人間であるという私の乏しさも同時に証ししてしまっています。

私がこう書くのは、パウロの嘆きに共感し、体験したからに他なりません。

 

「しかし、罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。」ローマ書78節。

 

ここはとても難しく混乱する箇所でもあります。
律法なしに生きていたときは、むさぼりが罪である事を知らずに生きていくことが出来ます。盗んではならない、偽証してはならない・・・さばいてはならない・・・それが罪と知らなければそのまま生きていく事が出来ます。律法が罪を照らさなければ、罪の陰も見えません。闇に生きていれば隣人の姿も顔も見えません。

 

「私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。」とパウロは語り続けます。「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。」ローマ書71517

 

「すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見い出すのです。
私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」ローマ書723節〜25

 

パウロの嘆きの深さは相当なものです。昔は一体どっちなんだ?イエスさまはについて行くと、決して離れないと決心したのに、善い人間にはなれないのか?どうして?私は善人の道を歩みたいのに・・・。

パウロの語っている事がわかりませんでした。パウロほどの人がどうしてこのような手紙を書き送り、新約聖書として今も残っているのか?不思議でなりませんでした。
それでもパウロは主イエスキリストに対して感謝しているのです。

教会に通っているのは真面目な人だ、心の綺麗な人だ、辛抱強い人だ、善人だ、そうならなければならないんだ、そうでないと教会に足を踏み入れてはいけないんだ、それ大きな誤解です。まだ書き足りませんので断続的に続けようと思います。

 

追記。私は教会には絶対に行きません。

私は人間が苦手です。

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