"My faith"カテゴリーの記事一覧
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"兄弟たちよ。私の心の願い、彼らのために神にささげる祈りは、彼らの救いです。私は、彼らが神に対して熱心であることを証ししますが、その熱心は知識に基づくものではありません。
彼らは神の義を知らずに、自らの義を立てようとして、神の義に従わなかったのです。
律法が目指すものはキリストです。それで、義は信じる者すべてに与えられるのです。"
ローマ人への手紙 10章1~4節
どうしたもんでしょうか。まさか日本のクリスチャンたちはこのみことばを否定するつもりなのでしょうか?浄土真宗の教えは私も知っております。私の母は浄土真宗のお寺の前に家があり、子どもの頃からお坊さんの話を聞いて育った生粋の信徒と言っても良いくらいで、私はその母の言う事を幼い頃からずっと聞いて育ちました。そのことがあってか、この世には目に見えないものがあり、目に見えない霊がこの世を見ている、という畏怖の念を植え付けられて育ちました。しかしいつまでも母の言うことを丸呑みにしてはいられない思春期に差し掛かり、一旦離れてそのままです。よく考えるまでもなく浄土真宗とキリスト教の教えは似たところがあります。母に私の信仰について話したところ、母は特に違和感を持たずに受け入れて、一緒に祈りました。けれど父はそうともいかず、目に見えるお寺に対して信仰し、死後の葬儀は浄土真宗のお寺さんに依頼するようにと都度身内に言いふくめており、葬儀はそのように行われ、母は自分の死後もそのようにしてほしいとのことです。私は落胆はしておりません。今のキリスト教と大差ないでしょう。それに私も私の家族も救われると信じています。
キリストへの信仰は今生きて、喋ること聞くこと祈ること歩けることが出来る人たちのためのものなんでしょうか。今まさに死にゆくものに対しては無効なのでしょうか?生涯の時間の99%を神に背いて生き、死にゆく時間の残り1%で、今まで神のことを思わず、福音を知らずに生きて、みなしごのようであっても「神さま、ありがとう」「神さま、ごめんなさい」と心の中でそう思えば、神はその人を受け入れてくださると私は信じています。福音は人類に対するもので特定の特別な人たちのものではないはずです。福音を自分たちだけで独り占めにするのは良くないです。
放蕩息子の話、ぶどう園の持ち主が働き手への報酬をどんな時間に来ようが平等に与えた話、新約聖書は救われるとはどういうことかを詳しく多角的に書かれたものです。イエスさまはなんと言っているか、十字架にかけらてた時、共に上げられた囚人へのことばは嘘だとでも言うのでしょうか?聖書は神のみことばです。
侮るなかれ。主はとても憐れみ深く慈悲深いお方です。正しいキリスト教とは一体何ですか?どこにありますか?私は知りません。でも本当の神殿は何かとはわかります。まことの神殿は主イエス・キリストそのものです。イエスさまに祈る時間は礼拝そのものです。
誰も私を神に愛から切り離すことはできません。どうして「そんなんで救われるはずがない」と言えますか?
誰かが人に対してそんなんで救われるはずがないと言わないようにしましょう。それは神の愛の否定です。否定する権利は誰にもありません。主と個人との関係に、誰も入り込めません。
旧統一教会の信者に対してもそんなことを言ってはいけないと私は思っています。間違った教義で生涯の99%を使おうとも、後の1%で主イエスさまの働きによって動かされる可能性だって十分にあります。全てをご存じなのは主イエスさまだけです。私たちではありません。全ての人が救われると信じないでどうするんです?ダメです。救いはどこでもいつでもそばにあります。
このように確信している私に対して、このようなことをぶつけてくる存在があるのはわかっています。信仰についてこのように方々で書き綴る人をあまり見たことはありません。牧師や神父でもない、ましてや教会にも属していない野良のものに対して、キリスト教徒は否定的です。なぜこちらに来ない?なぜ教会に来ない?と、まるで不審者扱いです。
教会には行きたくない私に主は無教会主義の集まりに導いてくださったのです。本当に教会が必要ならどこかの教会に導いたはずです。それぞれに主のご計画があるのでしょう。あなたたちが否定しても、主は私を離さず私も主から離れません。
一旦終わります。
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私のnoteより。2019年10月29日 09:09
前々から考えていたことの宣言と決意を述べておきます。
まず第一に。私は善人でも良い人でも、心の綺麗な人間でもありません。
強くもありません。全部誤解だし見抜いている人は見抜いています。もしそのように一瞬でも見えるのなら、主イエスさまが私を通して、言うべき事やるべき事を成し遂げられたのであって、褒め称えられるべきは主イエスキリストです。
私ではありません。
私の願いは、みことばに従う事、主イエスキリストのみこころを常に追う事と、家族も救われる事を信じて諦めない事、福音を述べ伝える事、イエスさまが今も生きて働いている事を、ここで証しする事です。
すでに私の言葉の荒さはTwitterで垣間見える通り。
そして、嘘をつきながら良い顔をして悪びれもせずに悪政を布く政治家に対する思いは、戒めから逸脱し尽くし、憎しみが絶えない事、世の男性に対して敵意を持っている事で、
愛のない人間であるという私の乏しさも同時に証ししてしまっています。私がこう書くのは、パウロの嘆きに共感し、体験したからに他なりません。
「しかし、罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。」ローマ書7章8節。
ここはとても難しく混乱する箇所でもあります。
律法なしに生きていたときは、むさぼりが罪である事を知らずに生きていくことが出来ます。盗んではならない、偽証してはならない・・・さばいてはならない・・・それが罪と知らなければそのまま生きていく事が出来ます。律法が罪を照らさなければ、罪の陰も見えません。闇に生きていれば隣人の姿も顔も見えません。「私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。」とパウロは語り続けます。「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。」ローマ書7章15〜17節
「すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見い出すのです。
私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」ローマ書7章23節〜25節パウロの嘆きの深さは相当なものです。昔は一体どっちなんだ?イエスさまはについて行くと、決して離れないと決心したのに、善い人間にはなれないのか?どうして?私は善人の道を歩みたいのに・・・。
パウロの語っている事がわかりませんでした。パウロほどの人がどうしてこのような手紙を書き送り、新約聖書として今も残っているのか?不思議でなりませんでした。
それでもパウロは主イエスキリストに対して感謝しているのです。教会に通っているのは真面目な人だ、心の綺麗な人だ、辛抱強い人だ、善人だ、そうならなければならないんだ、そうでないと教会に足を踏み入れてはいけないんだ、それは大きな誤解です。まだ書き足りませんので断続的に続けようと思います。
追記。私は教会には絶対に行きません。
私は人間が苦手です。
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2023年1月7日にnoteにて掲載したものです。
"この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。 "
ローマ人への手紙12章2節聖書 新改訳第二版
この世の調子に釣られて、怒りで全身を満たしてしまう寸前で、実際に身体が痛み、血圧が急上昇するのも、また恵みなのでしょう。実際の痛みを味わい、床に臥すことによらなければ、聖霊の働きを妨害してしまうというエゴイストな性質を止められない。"不信者と、つり合わないくびきをともにしてはいけません。正義と不法に何の関わりがあるでしょう。光と闇に何の交わりがあるでしょう。 キリストとベリアルに何の調和があるでしょう。信者と不信者が何を共有しているでしょう。" コリント人への手紙 第二 6章14~15節最後の七週が引き延ばされて、二千年以上も延ばされたというのは嘘だった。七週の大患難時代が続いているというのも嘘だった。
"あなたの民とあなたの聖なる都について、七十週が定められている。それは、背きをやめさせ、罪を終わらせ、咎の宥めを行い、永遠の義をもたらし、幻と預言を確証し、至聖所に油注ぎを行うためである。"
ダニエル書 9章24節
"それゆえ、知れ。悟れ。エルサレムを復興し、再建せよとの命令が出てから、油注がれた者、君主が来るまでが七週。そして苦しみの期間である六十二週の間に、広場と堀が造り直される。"
ダニエル書 9章25節
"ヨハネから、アジアにある七つの教会へ。今おられ、昔おられ、やがて来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、 また、確かな証人、死者の中から最初に生まれた方、地の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにあるように。
ヨハネの黙示録 1章4~5節
"耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。勝利を得る者には、わたしはいのちの木から食べることを許す。それは神のパラダイスにある。』"
ヨハネの黙示録 2章7節
教会は御霊が告げることを聞かなければ何も始まらない。まだ始まっていないのに、いつ終わりが来るのかまだ誰もわからないだろう。なぜ、こんなことしたら主が怒るのではないか?それで自分はダメだって目を伏せるんだろう。それじゃあ思う壺だろう。善悪を知る木の実を取って食べ、神のような知恵を持つことが出来ても、そこにいのちがない。エデンの園には、中央に善悪の知識の木と、もう一つ、いのちの木があったけれど、それを素通りして来た。そむきの罪の咎を赦し、いのちの書に名前を記そうとまでして下さる。神の愛は世々限りなく続く。今、イスラエルという国は存在し、エルサレム神殿も存在する。でも、本当に主のみこころの通りに復興出来ているのか、いないのか?主のみこころだけが成りますように。
"また、確かな証人、死者の中から最初に生まれた方、地の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにあるように。私たちを愛し、その血によって私たちを罪から解き放ち、 また、ご自分の父である神のために、私たちを王国とし、祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくあるように。アーメン。"
ヨハネの黙示録 1章5~6節
旧約聖書と新約聖書の間には、400年の時間があるとしても、それはニンゲンの朝夕の時間で、神には4秒くらいだろうし(あるいは)、キリストの弟子のペテロが建てた初代教会を弾圧して潰したのがBC300年までの出来事だとして、そこから100年で新約聖書の元になる書簡と御霊の働きで出来上がったとしたら、大患難時代が2000年以上続いてるって、あまりにも愛がない。
"神は言われます。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。」見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。"
コリント人への手紙 第二 6章2節
忘れちゃいけないこと。イエスさまは神殿で鳩や牛や羊を売ったり、両替えする者たちに、細縄で鞭を打ちながら追い払うということをしたことから、主の神殿には生け贄は必要がない、そしてしきたりの一切を否定するものだろう。私たちが待つエルサレムの神殿は、古いものではないだろう。イエスさまが人を細縄で打つなど、それは大変なことで、よほどのことだと想像出来る。それは父なる神のみこころなのだろう。もう生け贄は求めていない父なる神。それは神ご自身が、人間として生まれ、人類の罪を背負って十字架に架かられたイエス・キリストで完了したことで気付かされることのはずだ。私たちが待つのは、古い神殿ではないはずだ。新しい神殿を待つ。すべての債務証書を無効にし、私たちの罪をもう二度と思い出さないという神に対して、捧げものは必要なく、必要なのは感謝の祈りであり、いつまでも十分な恵みを与えて下さる主を褒め称えることに新しく変わったはずだ。いつまでも自分の罪にオドオドしているのは、もったいない時間だと思う。イエスさまが死なれた時に神殿の幕が上から下まで避けた時、それまでは大祭司だけが幕の奥に在る至聖所に入れたものを、幕が裂け至聖所が丸見えになったというのは驚愕の光景だっただろう。大祭司は何を思ったか。神ご自身が至聖所の幕を破り、誰でも神の近くに来なさいと、懐を大きく開いて待っていて下さっているという証だ。それはユダヤ人のみならず、異邦人にまで及び、今は人類すべてにまで、その恵みに与ることが出来る。大患難時代どころか、今はまだ恵みの時。学問もお金も必要もない。求められているのは、信じる心によりイエスさまに近づこうという決心ひとつ。新しい神殿は、ペテロが建てた初代教会だったかもしれないが厳しい弾圧によって破壊された。今は教会が新しい神殿とされているが、本当にそうだろうか? -
ニューヨーク大学リハビリテーション病院の壁には、作者不明の詩が書かれている。「病者の祈り」大事を成そうとして力を与えてほしいと神に求めたのに慎み深く従順であるようにと弱さを授かったより偉大なことができるように健康を求めたのによりよきことができるようにと病弱を与えられた幸せになろうとして富を求めたのに賢明であるようにと貧困を授かった世の人々の賞賛を得ようとして権力を求めたのに神の前にひざまずくようにと弱さを授かった人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのにあらゆるものを喜べるようにと生命を授かった求めたものは一つとして与えられなかったが願いはすべて聞き届けられた神の意にそわぬ者であるにもかかわらず心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた私はあらゆる人々の中で最も豊かに祝福されたのだ
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マグダラのマリアについては、聖書の中では姦淫の罪を犯して石打ちの刑が決まった女性。
このマリアについてはのちに聖人に加えられる。
私はこのマリアが出てくる聖書の箇所について恐れがあった。
石打ちの刑が始まろうとした時にイエスさまがこられて、
「あなたたちの中で 罪を犯したことのないものが、この女にまず石を投げなさい」といい、この女の周りにいた者は石を投げずに去っていきました。その後、"イエスは身を起こして、彼女に言われた。「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか。」彼女は言った。「はい、主よ。だれも。」イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」〕"ヨハネの福音書 8章10~11節
イエスさまはさばかずに、これからは決して罪を犯してはなりませんと言ったのです。
それからはこのマリアはずっとイエスさまとその弟子、一行の後についてくる者と一緒に行動をし、ゴルゴダの丘での十字架にかけられるイエスさまを見守り、三日後の復活されたイエスさまを最初に見て、それを皆に知らせに走った証人となりました。罪は犯していません。
私はその「罪を犯してはなりません」というのはこのように弟子とともに弟子のように生きて、イエスさまの証人として生きることなのだろうと思っていました。罪を犯さずに。
そうすれば良いんだと思って長いこと生きてきました。でも果たしてそれは可能だろうか?私はこれから先罪を犯さずに生きていけるだろうか?Crimeを犯さずに生きようと決意して実行することはあるいは可能です。でもその保証なんて本当はどこにもありません。
そしてSinについてもあるいは可能で保証もないのも同じですがこちらはほぼ刑法での法がないものです。刑罰で人間から裁かれることはないでしょうが、主の前ではどうでしょうか。
Sinは容易く犯してしまうものであると思います。だからそんな人間たちを憐れんで父なる神はイエスさまをこの世に送ったのでしょう。それはキリスト者なら誰でも否定はできないはずです。
マリアの行動は許された後、イエスさまの側を離れなかったのはとても重要なことだと思います。
それでも蘇った後のイエスさまは、マリアがご自身に触れることを拒みました。
これからは違うんだよっていうイエささまの意思表示だと思います。これからは目に見える者ではなくなるんだよ、それでもわたしの側からは離れないようにという大事な大事な事柄だと思います。
私が生まれる前から私がどんな人間か、それはもうバレちゃってる。それもキリスト者なら否定できないことだと思います。
「罪とは主から目を逸らしてしまうことでしょう?」
この確信を与えてくださった兄弟に会えたことは感謝です。
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天におられるあなたがたの父のみこころ
統一教会の問題について、弁護士やジャーナリスト、言論人が各媒体を通して連日議論等をされておりますが、別の突破口があるはずだとずっと思い巡らしておりましたことをここに書き残しておきます*
旧統一教会の合同結婚式で、韓国の農家に嫁いだ日本人女性。夫となった人物は信仰心よりも、結婚相手を与えてもらえるからと教会に入っただけで、嫁として迎えられたのではありませんでした。豚小屋に住まわされ、夫は用を済ませる時のみ豚小屋にやって来るそうです。まるで奴隷です。それでも統一教会の教本を読む時だけは満たされると言ったそうです。どれだけ強く教会に縛られているか、想像出来るケースだと思います。嫁いだ家が地図上のどこにあるのかすらわからないと。自ら脱会するという発想も出来ないほど。私がこのことを知るきっかけの元となった記事は文末にあります。
岸田ソーリが被害者の話を聞く、それこそが旧統一教会は日本政府のお墨付きの教団ではない、もうこれからは騙される人が減ると、それだけで喜んで良いものかどうか?残念ながら私の思いは誰からも反応がありません。私には拡散力はありません。
やはり自分たちの教会が満たされたり、クリスチャン人口を増やすことの方が大事なんのでしょうか?しかも初穂のクリスチャンを。2世キリスト者も、成人年齢に達し、自ら主イエス・キリストを自分の主人として受け入れる決心をし、受洗する人も確実にいます。すべては主がなさることです。旧統一教会の被害者及び、関係者、ご家族やまだ教団に在籍する信者のために祈ることを呼びかける行動をお願いしたいのですが、どうでしょうか?
新約聖書のマタイの福音書18章、迷い出た羊のたとえからの13節〜14節の、父なる神のみこころが記されています。そのためにSNS、ネットのみならず、どこででも、キリスト者なら誰でも心に留め置き、お祈りを呼びかけることをしていただきたいですし、もう始めていらしたなら教えてほしいです。私は自分自身が義人であるとはとても思えないのですが、大勢の義人であるキリスト者が祈れば主は祈りを聞いて下さると信じています。義人のお祈りは必ず届くと信じております。
ちょっとだけわかるのは、今の日本国憲法では旧統一教会を解散にまで追い込むのは難しいということだけです。旧統一教会は解散との意見が八割を超え、もしその世論に従うのであれば、日本政府にとって都合が悪いものとされたら、数々の集会や結社を解散に追い込むことが可能になるかもしれません。政府与野党が日本国憲法の改正に向かっています。もし仮にですが今の政府が「国教は神道のみとする」という方針を打ち出したら、賛成多数で成立してしまいかねないかもしれないのです。改正されたらあるいは旧統一教会を解散させることも可能になるかもしれません。何というジレンマ。しかし統一教会は阿呆ではありません。現在のように、ここまで巨大化しており、人の心に入り込み存続出来ているということは、これは明らかに、主の介在があると思います。もちろんその対抗勢力も。それに対して世論や日本国憲法や法律では歯が立つはずがないと予想出来ます。旧統一教会が訴訟を起こすなら、それらの知識の上の上を行っているでしょう。キリスト者は、教会、無教会主義の区別なく、心を一つにして祈ることが出来なければ泥試合を世に見せつけ続けることになります。たくさんのキリスト教会があるのに、なぜ彼らは旧統一教会に行ってしまったのか?考えたことはありますか?
"まことに、あなたがたに言います。もしその羊を見つけたなら、その人は、迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜びます。
このように、この小さい者たちの一人が滅びることは、天におられるあなたがたの父のみこころではありません。"
マタイの福音書 18章13~14節阿部元リポーターが見た「合同結婚式」韓国に嫁いだ日本人妻の悲惨 FRYDAY デジタル
https://friday.kodansha.co.jp/article/254908韓国人を悪く言っているととらないでもらいたいです。この記事に出てくる日本人女性は、迷い出た羊のたとえそのものだと思います。
"イエスを告白しない霊はみな、神からのものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていましたが、今すでに世に来ているのです。"
ヨハネの手紙 第一 4章3節愛する天のお父様、イエスさま、みこころだけがなりますように。どうか導いて下さい。主イエス・キリストの御名によってお祈りを捧げます。アーメン。